sozoro nikki

そぞろ日記

四国への玄関…だった宇野(玉野)

だいぶん日にちが空いてしまいましたが、GWに実家に帰省し、そのとき宇野港のあたりをうろうろしてきたので、すこし宇野について書いてみたいとおもいます。

(本当は五月中に書くつもりだったのですが、五月、六月は畑が忙しく、余裕がありませんでした〜 気がつけば七月…)

 

宇野駅まえにある、wellcomeボード。

いつのまにか「ののちゃん」が玉野の顔に。

(作者のいしいひさいちさんの出身地が玉野なのですが、わたしが実家にいたころは、全く話題になっておりませんで。あまりご自分のことを発信しないかたのようです。←まさに岡山県人)

 

宇野といえば、いまでは瀬戸内海沿岸のごくありふれた町ですが、瀬戸大橋ができるまえは、四国(高松)への玄関口として、全国的に著名でした(学校の先生に、“玉野“は無名でも“宇野“は有名、と言われました)

先日徳島県出身のかたから聞いたところ、昔は大阪には岡山経由で行っていたということです。

え?大阪までフェリーじゃないの?とおもいましたσ^_^;

 

宇野駅からは、ブルートレインも東京まで出てました(特急瀬戸)

一度、乗ったことがあります。

 

その現在の宇野駅舎。建て替えられて昔の面影ゼロ。

アートな駅舎、だそうですが、地元民のウケはいまいち。

 

現在のホームは一つ。

昔利用した者としては、同じ駅とはおもえない(O_O)

しかも行き先は茶屋町…岡山まで行くには瀬戸大橋線に乗り換えねばなりません。

時間がかかるので、わたしも玉野にもどるときは特急バスを使うようになってしまいました。

(1時間に2本出ていて、時間も短縮できてとても便利)

 

宇野港周辺には、ののちゃんの四コマがあちこちに点在していて、探すとちょっとおもしろいかも。

まんがのなかで、「白玉が花崗岩」とおじさんが言っているのは、

 

山に見える大きな岩のことです。

いまは緑が増えて目立たなくなりましたが、このあたりは花崗岩地質の山なのです。

(なので、昔はやせた土壌を好む松ばかりの山でした。いまは腐葉土化して広葉樹が生えるようになった。父が昔は松茸が山ほど採れたと言っていた)

 

宇高連絡船をねぎらうモニュメント?

連絡船といえば、青函連絡船とか宇高連絡船が有名なのでしょうか。

昔は客車を乗せていたということですが、わたしは見たことがありません。

 

宇野港の歴史。

う〜ん、こういうの、コドモのときに知りたかったかも。

わたしが小学校のころは、郷土の歴史はあまり習いませんでした。

こうしてみると、宇野港の歴史は日本の近代化の歴史と重なります。

宇野も、いまはあまりひとがいなくなって話題はすっかり隣の児島(ジーンズで有名)に移ってしまいました。

(ますます日本の縮図w)

まあ、わたしはいまの宇野みたいなのんびりしたかんじがスキですが、玉野市的にはそうもいっていられないところ。

これからは瀬戸内国際芸術祭に乗っかって、アートの街で推していくしかないかもしれません^^;

 

ちなみに、玉野のお隣、児島はかつては塩業で栄えた町で、高度経済成長のころまでは単独の市として独立していました(その後倉敷市に合併)瀬戸大橋が開通するまでは、今ほど注目もされておらず、玉野のほうが断然活気がありました。玉野は三井造船や宇高航路ができてから成長した地域。現在の児島は単独の市としては存続していませんが、かつての活気をとりもどしているといえます。鷲羽山を擁し、瀬戸大橋とセットの景色は景勝地の名にふさわしいところです。由加山という香川の金比羅山とペアになっている霊場もあります。

 

埠頭にいると直島からのフェリーが入ってくるのが見えました。

 

瀬戸大橋ができるまえは、高松まで20分に一便出ているくらい、頻繁にフェリーが運航されていました。

とても高松に行きやすかったので、玉野の子は高松の自動車教習所に通っていました。

親戚もいるひとが大勢います。

 

見えるのは、(ついに!三菱に身売りしてしまった)かつての三井造船玉野造船所。

フェリーがばんばん出ていたころは、一般人はここ(埠頭)には来られなかったような。

いまは釣り人のメッカと化していました。

 

こうして見ていると、あと十年後の玉野はどうなっているのかなあとおもったりします。

先日、玉野市に日本最大の蓄電池工場が建設されると報道されたので、(玉野市は)産業的にはそっちに軸足を移すつもりなのかも。

場所は玉野の中心である宇野・築港地区ではないのですが、すこし人口の流入も期待でき……るかもしれません。